『薔薇の名前』ウンベルト・エーコ — 中世の修道院を舞台にした、知の迷宮のミステリー

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「ミステリー」と聞いて思い浮かべるのは、現代の都会の探偵でしょうか。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』(原題 Il nome della rosa)の舞台は、14世紀の北イタリアの修道院です。探偵役は修道士。そして修道院には、迷路のような文書館(図書室)があります。

1980年にイタリアで出版されたこの小説は、世界で5,000万部以上が売れ、史上もっとも売れた本のひとつに数えられています。けれど、ただの「売れたミステリー」ではありません。中世の神学、哲学、記号の読み解きまでを物語に溶かしこんだ、読みごたえのある一冊です。今回ははじめて読む方に向けて、物語の入り口と読みどころを紹介します。事件の真相や結末には触れません。

どんな本か――作者と時代

ウンベルト・エーコは、1932年1月5日にイタリア北部ピエモンテ州のアレッサンドリアで生まれ、2016年2月19日にミラノで84歳で亡くなりました。本業は小説家ではなく、学者です。記号論(ことばや身ぶり、絵など「意味を運ぶもの」がどう働くかを考える学問)の研究者で、哲学者であり、中世の研究者でもありました。1971年からはボローニャ大学で教え、『Opera aperta』(1962年)や『Trattato di semiotica generale』(1975年)などの研究書で知られていました。

そのエーコが初めて書いた小説が『薔薇の名前』です。出版は1980年、イタリアのボンピアーニ社から。翌1981年にはイタリアのストレーガ賞を、1982年にはフランスのメディシス賞(外国小説部門)を受けました。フランスのル・モンド紙が選んだ「20世紀の100冊」では14位に入っています。1986年にはジャン=ジャック・アノー監督、ショーン・コネリー主演で映画になり、2019年にはジョン・タトゥーロ主演でテレビドラマにもなりました。

題名について、エーコは、まったく中立な題にしたかったと説明しています。薔薇はあまりに多くの意味を背負わされてきた象徴なので、かえってほとんど何の意味も残っていない――だからこの題を選んだ、というのです。題名からして、ひとすじ縄ではいかない本であることがうかがえます。

物語の入り口――1327年、北イタリアの修道院へ

物語は、ひとつの「手記」として語られます。書き手は、メルクのアドソという老修道士。若いころ、見習い修道士だった自分が体験した7日間の出来事を、年老いてから振り返って書き残した、という形です。しかもこの本は、その手記のフランス語訳を「私」が手に入れた、というところから始まります。物語の外側にもう一枚、額縁がかかっているのです。

時は1327年。若きアドソは、師であるフランシスコ会の修道士、バスカヴィルのウィリアムに付き従って、北イタリアのベネディクト会の修道院にやってきます。ウィリアムはかつて異端審問官(教会で異端を取り調べ、裁く役)をつとめた人物で、鋭い論理と推理の力の持ち主として知られています。

二人がこの修道院を訪れたのは、ある神学上の討論会に出るためでした。当時、ローマ教皇ヨハネス22世とフランシスコ会のあいだでは、「使徒の清貧」(聖職者は土地も金銭も持つべきでないという教え)をめぐる論争が起きていました。この修道院は、その話し合いのための中立の場に選ばれていたのです。

ところが修道院は、ひとりの修道士の不審な死に揺れていました。修道院長はウィリアムに、この死について調べてほしいと頼みます。こうしてウィリアムとアドソの調べが始まります。この先、二人が何を見つけるのか――それは、ぜひ本で確かめてください。

読みどころ――推理小説であり、中世への旅であり、本についての本

一つ目の読みどころは、二人の組み合わせです。ウィリアムという名前は、シャーロック・ホームズが活躍する『バスカヴィル家の犬』と、中世の哲学者オッカムのウィリアムの両方をふまえています。手がかりを読み解く師と、それを書き留める弟子。ホームズとワトソンを思わせる関係が、中世の修道院に移されています。ミステリー好きなら、この仕掛けだけでも楽しめるはずです。

二つ目は、物語の「時間の刻み方」です。物語は7日間で進み、各章の見出しは、修道院で一日に何度も行われる祈りの時刻(時課)に沿って区切られています。修道士たちの一日のリズムがそのまま本の構成になっていて、読んでいるうちに自分も修道院で寝起きしているような気分になります。

三つ目は、迷路のような文書館です。修道院の奥にある文書館は、それ自体が謎めいた建物として描かれます。エーコは、アルゼンチンの作家ボルヘスの短編「バベルの図書館」からこの文書館の着想を得たとされています。本と知識をめぐる物語として読むこともできる、というのがこの作品の大きな魅力です。

正直に言えば、すらすら読める本ではありません。神学や哲学の話題が多く、ラテン語の引用(本物もあれば、作り物もあります)もたくさん出てきます。けれど、分からないところは分からないまま進んでも、物語の筋はちゃんと追えます。読み返すたびに新しい発見がある。そういう「何度も入れる迷宮」のような本です。

こんな人におすすめ

  • ホームズものなど、古典的な推理小説が好きで、ひと味ちがう謎解きを読みたい人
  • 中世ヨーロッパの修道院や教会の暮らしに興味がある人
  • 映画『薔薇の名前』を観て、原作がどう書かれているのか知りたくなった人
  • 時間をかけて、じっくり腰を据えて読む長編を探している人

邦訳・版の案内

日本語訳は、河島英昭による訳が東京創元社から出ています。

1990年に刊行されたのが、河島英昭訳『薔薇の名前』上・下巻です。

2025年12月には、同じ東京創元社の「海外文学セレクション」から『薔薇の名前[完全版]』上・下巻が出ました。訳者は河島英昭と河島思朗の二人。エーコが刊行後に加えた訂正や削除を反映し、2012年版に作者が寄せた付記も収めています。訳文はラテン語に関わる部分を中心に見直されました。さらに、作者による『覚書』や構想時のメモ、エーコ自身が描いた文書館の図面や登場人物のスケッチも収録されています。電子書籍版もあります。これから読むなら、まずはこの完全版を手に取ってみるとよいでしょう。

難しそうで不安な方には、読み解きの手引きもあります。NHK出版の「100分de名著」のテキスト『ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』―笑いは知の限界を暴く』(和田忠彦著・2018年)や、慶應義塾大学出版会の『エーコ『薔薇の名前』―迷宮をめぐる〈はてしない物語〉』(図師宣忠著・2021年)があります。

1327年の修道院へ。迷路の入り口は、アドソの最初のページにひらいています。

English version of this review: The Name of the Rose

参考

  • Wikipedia「The Name of the Rose」(原題 Il nome della rosa・1980年刊のエーコの第一作の小説であること・イタリアのボンピアーニ社刊・ウィリアム・ウィーヴァーの英訳が1983年・1327年の北イタリアのベネディクト会修道院が舞台・記号論や聖書解釈や文学理論を盛り込んだ歴史ミステリーであること・語り手は見習い修道士メルクのアドソで、年老いてから書く形であること・フランシスコ会の修道士で元異端審問官のバスカヴィルのウィリアム・神学上の討論会に出るため修道院を訪れること・修道院が教皇ヨハネス22世とフランシスコ会の「使徒の清貧(apostolic poverty)」をめぐる対立の中立の場であること・修道士の不審な死を院長がウィリアムに調べるよう頼むこと・物語が7日間で進み章題が修道院の祈りの時刻(時課)に沿うこと・迷路のような文書館・本物と作り物のラテン語の引用・ポストモダン小説と評されること・題名についてのエーコの説明・ウィリアムの名がシャーロック・ホームズと『バスカヴィル家の犬』および中世の哲学者オッカムのウィリアムをふまえていること・アドソの名がワトソンを思わせ、アドソによるウィリアムの描写が『緋色の研究』でワトソンがホームズを描く文に似ていること・文書館がボルヘス「バベルの図書館」に着想を得ていること・5,000万部以上で史上もっとも売れた本のひとつであること・ストレーガ賞1981年・メディシス賞外国小説部門1982年・ル・モンド紙の「20世紀の100冊」14位・1986年のジャン=ジャック・アノー監督の映画(ショーン・コネリー主演)・2019年のジョン・タトゥーロ主演のテレビドラマ) https://en.wikipedia.org/wiki/The_Name_of_the_Rose
  • Wikipedia「Umberto Eco」(生年月日と生地ピエモンテ州アレッサンドリア・没年月日と没地ミラノ・84歳・記号論学者で哲学者・中世研究者・1971年からボローニャ大学で教えたこと・『Opera aperta』1962年・『Trattato di semiotica generale』1975年・小説7作の題と刊行年) https://en.wikipedia.org/wiki/Umberto_Eco
  • Wikipedia(日本語)「薔薇の名前」(日本語での人物名の表記「バスカヴィルのウィリアム」「メルクのアドソ」・河島英昭訳の上下巻が東京創元社から1990年・完全版が2025年) https://ja.wikipedia.org/wiki/薔薇の名前
  • Wikipedia「Apostolic poverty」(聖職者は土地も金銭も持つべきでないとするキリスト教の教え) https://en.wikipedia.org/wiki/Apostolic_poverty
  • Wikipedia「Inquisition」(異端などを取り締まるため、教会の裁判官が調べ、裁く手続きであったこと) https://en.wikipedia.org/wiki/Inquisition
  • Wikipedia「The Library of Babel」(作者ボルヘスがアルゼンチンの作家であること) https://en.wikipedia.org/wiki/The_Library_of_Babel
  • 国立国会図書館サーチ『薔薇の名前』上・下・河島英昭訳・東京創元社・1990年 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002027847
  • 国立国会図書館サーチ『薔薇の名前 完全版』上(海外文学セレクション)・河島英昭・河島思朗訳・東京創元社・2025年12月・電子書籍版あり https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I034465719
  • 国立国会図書館サーチ(検索結果)『ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』―笑いは知の限界を暴く』NHK出版「100分de名著」・和田忠彦・2018年/『エーコ『薔薇の名前』―迷宮をめぐる〈はてしない物語〉』慶應義塾大学出版会・図師宣忠・2021年 https://ndlsearch.ndl.go.jp/search?cs=bib&keyword=%E8%96%94%E8%96%87%E3%81%AE%E5%90%8D%E5%89%8D%20%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B3
  • 東京創元社『薔薇の名前[完全版]〈上〉』(四六判上製・初版2025年12月26日・ウィリアムが鋭い論理と推理の力で知られる英国の修道士であること・老修道士アドソが見習い時代を回想する手記の形であること・作者が刊行後に加えた訂正と削除を反映し、2012年版に作者が寄せた付記を収録) https://www.tsogen.co.jp/sp/isbn/9784488016937
  • 東京創元社 特設ページ「ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』完全版」(上下巻・底本はLa nave di Teseo社の2020年版・河島思朗がラテン語に関わる部分を中心に訳文を見直したこと・エーコの『覚書』と構想時のメモ、作者自身による文書館の図面や人物のスケッチを収録・物語はアドソの手記のフランス語訳を「私」が手に入れるところから始まること) https://special.tsogen.co.jp/ilnomedellarosa