この記事にはアフィリエイト広告(もしもアフィリエイト)のリンクが含まれます。
「いつか読もう」と思ったまま、本棚の高いところに置かれがちな本があります。その代表が、レフ・トルストイの『戦争と平和』(原題 Война и мир、英題 War and Peace)ではないでしょうか。文庫で4冊から6冊。登場人物は数百人。題名からして重々しく、手を伸ばすのに勇気がいります。
けれども、この小説の最初のページに描かれているのは、戦場ではありません。1805年の夏、ペテルブルクの屋敷で開かれる、貴族たちの夜会です。着飾った貴族たちが集う広間に、場ちがいな青年がひとり、所在なげに立っている。大河小説は、そんな身近な場面から動きはじめます。今回は、はじめて読む方に向けて、物語の入り口と読みどころ、そして文庫の選び方を紹介します。中盤以降の展開や結末には触れません。
どんな本か――作者と時代
戦場を知る作家が書いた「戦争」
作者のレフ・トルストイは、1828年にヤースナヤ・ポリャーナで生まれ、1910年に世を去りました。この人について、まず知っておきたいのは、若いころに軍隊にいたことです。1851年に兄とともにカフカス(コーカサス)へ行って軍に加わり、その後のクリミア戦争では砲兵将校として、11か月にわたるセヴァストーポリの包囲戦をその場で経験しました。その体験は『セヴァストーポリ物語』という作品にまとめられています。
つまり『戦争と平和』の戦場の場面は、大砲の音や兵士の空気を自分の身で知っていた作家によって書かれたものです。
書きあげるまで
日本語版Wikipediaによれば、トルストイがこの作品に取りかかったのは36歳のとき。1862年に結婚した妻ソフィヤは、夫の秘書や編集者の役もつとめ、この大長編の原稿を何度も手で書き写して清書したと、英語版Wikipediaは伝えています。
英語版Wikipediaによると、作品の初期の形は『1805年』という題で、1865年から1867年にかけて雑誌『ロシア報知』に載りました。トルストイはそこから大きく書き直し、1869年に完全な形で刊行します。ロシア語の原文は4つの巻とエピローグ(2部)からなり、全部で361章。そのうち24章は物語ではなく、歴史とは何かをめぐるトルストイ自身の思索にあてられています。トルストイ本人はこの作品を「小説ではない」と語っていたそうです。いまでは、史上最も偉大な小説の一つに数えられています。
舞台はナポレオン戦争の時代
物語の時代は1805年から。ヨーロッパではナポレオンが勢力を広げ、ロシアもその戦争に巻きこまれていきます。そして1812年、フランス軍がロシアに攻めこむ――この歴史上の大事件が、作品の大きな中心になっています。
登場するのは、架空の人物だけではありません。ナポレオンや、ロシア軍を率いた軍人クトゥーゾフといった実在の人物も物語のなかで大きな役割を果たし、名前が出てくる実在の人物は約160人にのぼります。日本語版Wikipediaや新潮文庫の紹介文によれば、登場人物の総数は559人ともいわれます。
物語の入り口――ペテルブルクの夜会と、モスクワのにぎやかな一家
1805年7月、ペテルブルク。皇太后の側近として仕えるアンナ・パーヴロヴナ・シェーラーが、自宅で夜会を開いています。
その客のなかに、ピエール・ベズーホフという青年がいます。大富豪の伯爵の、正式な結婚から生まれたのではない息子で、父の援助で外国で教育を受けました。心はやさしいのに、社交の場ではどうにもぎこちなく、仕事も決まっていません。父親のお気に入りなので、莫大な財産を継ぐのは彼ではないかと、まわりの貴族たちはひそかに目を光らせています。
ピエールの友人アンドレイ・ボルコンスキー公爵も、同じ夜会に来ています。こちらは妻のある身ですが、ペテルブルクの社交界にも、自分の結婚生活にも嫌気がさしています。そこで彼は、ナポレオンとの戦争に向けて、ナポレオン軍に向かうロシア軍を指揮するクトゥーゾフの副官(指揮官のそばに仕える将校)として、軍に加わる決心をします。身ごもった妻リーザを、田舎の領地「禿山(はげやま)」に住む、気むずかしい父と信心深い妹マリヤのもとに預けて。
一方、モスクワには、ロストフ伯爵家の明るくにぎやかな暮らしがあります。家計の心配はあっても、家族の仲は温かい。13歳の娘ナターシャ、20歳の息子ニコライ、いとこのソーニャ――若い人たちの胸には、それぞれの恋心や夢がふくらんでいます。
都会の社交界、地方の古い屋敷、そして戦地。いくつもの場所で、いくつもの家族の時間が同時に流れはじめます。彼らが歴史の大きな波のなかでどう生きていくのか――それはぜひ、本で確かめてください。
読みどころ――歴史のうねりと、ひとりひとりの毎日
1. 「戦争」と「平和」が交互にやってくる
題名のとおり、この小説には戦場の場面と、社交の場や家族の食卓といった日々の暮らしの場面の両方が描かれます。大砲の煙のなかにいる青年がいる同じ時間に、モスクワの屋敷では誰かが恋に悩んでいる。その切りかえが、物語に大きな呼吸を与えています。歴史の教科書では「何年に何の戦いがあった」の一行ですむ出来事が、そこに生きた人たちの喜びや不安を通して、手ざわりのある時間として立ちあがってきます。
2. 五つの貴族の家の群像劇
物語の中心には、ベズーホフ家、ボルコンスキー家、ロストフ家、クラーギン家、ドルベツコイ家という五つの貴族の家があります。家ごとに気風がまるでちがい、それぞれの家の人たちが出会い、すれちがい、影響しあっていきます。誰か一人の英雄の物語ではなく、たくさんの人生が織りあわさってできた大きな布のような小説です。
3. 歴史を動かすのは誰か、という問い
トルストイは物語のあいだに、歴史についての自分の考えを語る章をはさみこんでいます。歴史は一人の英雄が動かすものなのか、それとも数えきれない人びとの営みの積み重ねなのか。この問いかけは、物語を読み進めるうちに、自分の生きている時代を見る目にも静かに響いてきます。思索の章が重く感じたら、最初は物語の章を中心に読み、あとから戻ってくる読み方もできます。
4. 会話に混じるフランス語
当時のロシア貴族は、ふだんからフランス語で話すことが多かったといわれます。原文でも会話のかなりの部分がフランス語で書かれており、やがて戦う相手となる国の言葉で語りあう上流社会の姿そのものが、時代の空気を伝えています。原文でのフランス語は、物語が進むにつれて少なくなっていくそうです。
読み通すためのコツ
これだけ長い小説を読み通す秘訣は、「全部を覚えようとしない」ことです。最初は、ピエール、アンドレイ、ナターシャの三人を追いかけるつもりで読んでみてください。迷ったら、自分で簡単な人物メモを作っておくのも手です。一日数十ページずつでも、季節がひとつ変わるころには、ロストフ家の人たちが古い知り合いのように感じられているはずです。
こんな人におすすめ
- ナポレオンの時代や、ヨーロッパの歴史が好きな人
- 一人の主人公よりも、たくさんの人の人生が交わる群像劇を読みたい人
- 時間をかけて、一つの大きな物語の世界に住みこむような読書をしてみたい人
- 映画やドラマ(1956年のアメリカ映画、ソ連のボンダルチュク監督による映画、2016年のBBCドラマなど)で物語に触れ、原作にも挑戦したい人
邦訳・版の案内
『戦争と平和』は、大正時代の米川正夫・昇曙夢の共訳をはじめ、何度も訳されてきました。いま文庫で手に取りやすいのは、次の3つです。巻数がそれぞれちがうので、選ぶときの目安にしてください。
岩波文庫・藤沼貴訳(全6冊・2006年)。 国立国会図書館の記録では、第6巻の紹介に「全篇完結」とあります。文字の大きい「ワイド版岩波文庫」(全6冊・2014年)もあります。
光文社古典新訳文庫・望月哲男訳(全6巻・2020〜2021年)。 2020年1月に第1巻が出て、2021年9月の第6巻で完結しました。ここに挙げた3つのなかでいちばん新しい訳です。
新潮文庫・工藤精一郎訳(全4冊)。 文庫は1972年の発売で、2005〜2006年に改版されています。出版社のページには第一巻から第四巻が並んでおり、日本語版Wikipediaも全4巻としています。冊数が少ないぶん、一冊は厚めです。
同じ物語でも、訳によって人物の呼び方や文章のリズムがかなりちがいます。書店や図書館で第1巻の最初の数ページ、あの夜会の場面を読みくらべて、いちばん読みやすいと感じた訳を選ぶのがおすすめです。
アンナ・パーヴロヴナの広間で、ぎこちなく立っているピエールに出会ったら、あなたももう、この長い旅の一行の仲間です。
English version of this review: War and Peace
参考
- Wikipedia「War and Peace」(初期稿が『1805年』の題で1865〜1867年に雑誌『ロシア報知』に載ったこと・大きく書き直して1869年に完全な形で刊行されたこと・ロシア語原文で4巻15編と2部のエピローグの構成・361章のうち24章が物語ではなく思索の章であること・1812年のフランス軍のロシア侵攻を中心にした時代設定・会話の多くがフランス語で書かれ、それがロシア貴族のフランス語使用を映していること・フランス語は物語が進むにつれて減ること・トルストイ自身が「小説ではない」と述べたこと・ベズーホフ、ボルコンスキー、ロストフ、クラーギン、ドルベツコイの5つの貴族の家・ナポレオンやクトゥーゾフなど実在の人物が大きな役割を果たし、約160人の実在の人物が登場または言及されること・序盤の設定(1805年7月、ペテルブルクで皇太后マリア・フョードロヴナの側近アンナ・パーヴロヴナ・シェーラーが開く夜会、ピエールが富裕な伯爵の非嫡出の息子で母の死後に父の費用で外国で教育を受けたこと・やさしいが社交に不慣れで仕事が無いこと・父のお気に入りで財産の相続が取り沙汰されること、アンドレイがペテルブルクの社交界と結婚生活に幻滅していること、モスクワのロストフ家が家計を案じつつ愛情深いこと、13歳のナターシャと20歳のニコライ、15歳のいとこソーニャ、アンドレイが身ごもった妻リーザを禿山の気むずかしい父と信心深い妹マリヤのもとに残してクトゥーゾフの副官として出征を決めること)・映像化(1956年のキング・ヴィダー監督のアメリカ映画、ボンダルチュク監督のソ連映画、2016年のBBCドラマ)とプロコフィエフのオペラ) https://en.wikipedia.org/wiki/War_and_Peace
- Wikipedia「Leo Tolstoy」(生没年と生没地・ヤースナヤ・ポリャーナ・1851年に兄とともにカフカスへ行き軍に加わったこと・クリミア戦争に砲兵将校として従軍し11か月にわたるセヴァストーポリの包囲戦(1854〜55年)を経験したこと・『セヴァストーポリ物語』・1862年のソフィヤ・ベルスとの結婚と、妻が『戦争と平和』の原稿を繰り返し清書したこと・史上最も偉大な小説の一つとされること) https://en.wikipedia.org/wiki/Leo_Tolstoy
- Wikipedia(日本語)「戦争と平和」(雑誌『ロシア報知』での発表・36歳で執筆を始めたこと・全4巻とエピローグの構成・登場人物が559人にのぼるといわれること・日本語訳の一覧と巻数・米川正夫訳の初訳が大正期の昇曙夢との共訳であること・新潮文庫の改版が2005〜2006年であること・ワイド版岩波文庫が2014年であること) https://ja.wikipedia.org/wiki/戦争と平和
- 国立国会図書館サーチ『戦争と平和』岩波文庫・藤沼貴訳・2006年・第6巻の要約に「全篇完結」 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008314038
- 国立国会図書館サーチ『戦争と平和 1』光文社古典新訳文庫・望月哲男訳・2020年1月 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I030140833
- 国立国会図書館サーチ『戦争と平和 6』光文社古典新訳文庫・望月哲男訳・2021年9月・「全6巻完結」 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I031630209
- 国立国会図書館サーチ『戦争と平和 1』ワイド版岩波文庫・藤沼貴訳・2014年(検索結果で第1〜第6巻) https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I025529710
- Wikipedia「Mikhail Kutuzov」(ロシア帝国の軍人・1805年にウィーンへ進むナポレオン軍に対するロシア軍を指揮したこと) https://en.wikipedia.org/wiki/Mikhail_Kutuzov
- 国立国会図書館サーチ『戦争と平和 4』新潮文庫・工藤精一郎訳・2006年改版・紹介文に登場人物559人 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008255588
- 新潮社『戦争と平和 一』新潮文庫・工藤精一郎訳(1972年発売・第一〜第四巻が並ぶ) https://www.shinchosha.co.jp/book/206013/
