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『白鯨』という題名は知っていても、最後まで読んだことがある人は、意外と少ないかもしれません。アメリカ文学を代表する名作と呼ばれる一方で、「長くて難しい」「途中で挫折した」という声がついてまわる本でもあります。日本語版のWikipediaにも、通読が難しい作品として知られる、とわざわざ書かれているほどです。
けれど、この本の「難しさ」の正体を少し知っておくだけで、読み方はずいぶん変わります。『白鯨』は、ひとつの筋をまっすぐ追う小説というより、海の冒険、説教、芝居の台本のような場面、クジラについての博物学の講義までが一冊に詰めこまれた、いわば「ぜんぶ入り」の本なのです。今回は、はじめて手に取る方に向けて、物語の入り口と、迷わずに楽しむためのコツを紹介します。船が港を出たあとの展開や結末には触れません。
どんな本か――作者と時代
作者のハーマン・メルヴィルは、1819年8月1日にニューヨークで生まれました。1839年に商船の平水夫として海に出て、1841年には捕鯨船アクシュネット号に乗り組んでいます。翌1842年には、マルケサス諸島で船を離れました。そこでの体験をもとに書いた『タイピー』(1846年)と、その続編の『オムー』(1847年)で、作家として世に出ます。
『白鯨』を書き始めたのは1850年2月。マサチューセッツ州ピッツフィールドの農場で、とくに1850年から翌年にかけての冬に集中して書き進めました。同じ1850年の8月には作家ナサニエル・ホーソーンと出会っており、この本はホーソーンに献げられています。材料になったのは、自分自身の捕鯨船での日々に加えて、捕鯨やマッコウクジラについて書かれた何冊もの本、そしてチリ沖で追われたと伝えられる白いマッコウクジラ「モカ・ディック」の話でした。
本が出たのは1851年です。まず10月18日にロンドンのリチャード・ベントリー社から『The Whale(鯨)』という題の3巻本として、続いて11月14日にニューヨークのハーパー・アンド・ブラザーズ社から『Moby-Dick; or, The Whale』という題の1巻本として刊行されました。題名は出版直前に変わったもので、英国版は米国版と700か所以上も語句が違い、出版社の手で削られたり書き換えられたりした箇所もありました。
ところが、この本は当時ほとんど売れませんでした。メルヴィルはその後、1866年から19年間、ニューヨークの税関で検査官として働きます。1891年9月28日に亡くなったとき、彼は世間からほとんど忘れられており、『白鯨』も絶版になっていました。評価が一変したのは、生誕100年にあたる1919年以降のこと。20世紀に入ってから「偉大なアメリカ小説」のひとつとして読み直され、イギリスの作家サマセット・モームも『世界の十大小説』の一冊に挙げています。
物語の入り口――ニューベッドフォードの宿から、ナンタケットの港へ
語り手は、イシュメールと名乗る青年です。彼は12月、マンハッタンを出て、ニューベッドフォードへ向かいます。捕鯨船に新米の船乗りとして乗り込むためです。
混みあった宿「潮吹き亭(スパウター・イン)」で、イシュメールは見知らぬ男と同じ寝床を使うことになります。相手は、入れ墨をしたポリネシア出身の銛打ち、クイークェグ。思いがけない相部屋から、二人はやがて「心の友」と呼べる間柄になっていきます。町の礼拝堂では、マップル神父が、預言者ヨナの物語を題材に説教をします。
二人はナンタケット島へ渡り、乗る船を探します。イシュメールが選んだのは、鯨の歯や骨で飾りたてた古い捕鯨船、ピークォド号。船の持ち主は、ともにクエーカー教徒で元船長の、口の悪いピーレグと、しまり屋のビルダッドです。
ただ、この船の船長エイハブだけは、なかなか姿を見せません。ピーレグの話では、エイハブは前の航海でマッコウクジラに片脚を奪われ、それ以来、ふさぎこみがちなのだといいます。顔も知らない船長に一抹の不安を覚えながら、イシュメールを乗せたピークォド号は、クリスマスの日に港を出ていきます。
この船がどんな航海をするのか――それは、ぜひ本で確かめてください。
読みどころ――「脱線」こそが、この本の味わい
一つ目の読みどころは、序盤の青春小説のような明るさです。宿での奇妙な出会い、クイークェグとの友情、港町の人びと。重々しい題名からは想像しにくいほど、はじめの章はユーモアにあふれています。ここで二人を好きになれれば、長い航海にもきっとついていけます。
二つ目は、何度もはさまる「寄り道」です。本文は全135章ありますが、その前には「語源」と「抜粋」という、鯨にまつわる言葉や古今の文章を集めた前置きがついています。物語の途中にも、鯨という生きものを学問として論じる「鯨学」の章がいくつも入ります。さらに、説教、独白、まるで舞台の台本のように書かれた場面まであります。
挫折する人の多くは、この寄り道で「話が進まない」と感じて手が止まるのかもしれません。けれど、ここは発想を変えてみてください。鯨の章は、19世紀の捕鯨の現場をのぞく博物館の展示室のようなもの。わからない部分は軽く読み流して、物語の章に戻ってもかまいません。全部を理解しようとしないことが、この本と長くつきあうコツです。
三つ目は、言葉そのものの迫力です。聖書やシェイクスピアを下敷きにした言い回し、メルヴィルが自分で作った珍しい言葉、散文から詩のような文章への切りかえ。訳文を通しても、その熱量は伝わってきます。
こんな人におすすめ
- 名作だと知りながら、ずっと手を出せずにいた人
- 海や船、帆船の時代の冒険が好きな人
- 一冊の本にじっくり時間をかけて、少しずつ読み進めるのが好きな人
- 19世紀の捕鯨の仕事や、当時の人びとの暮らしに興味がある人
邦訳・版の案内
『白鯨』は、1941年に阿部知二訳の第一部が出て以来、何人もの訳者によって訳されてきました。文庫で出ている主な訳には、次のようなものがあります。
岩波文庫からは、八木敏雄訳『白鯨』(2004年、上・中・下の全3冊)が出ています。新潮文庫の田中西二郎訳『白鯨』(上・下)は、日本語版Wikipediaによれば1952年に出た訳で、国立国会図書館には2006年の改版が記録されています。角川文庫の富田彬訳『白鯨』(上・下)は2015年の改版、講談社文芸文庫の千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック』(上・下)は2000年の刊行です。改版と刊行の年は、いずれも国立国会図書館の記録で確かめました。いまの在庫や新しい刷りの有無は、書店で確かめてください。
なお、角川文庫には夢枕獏さんの同じ題名の作品もあるので、メルヴィルの『白鯨』を探すときは著者名と訳者名を確かめてください。分量の多い本なので、訳文の読みやすさは何より大切です。書店や図書館で、最初の宿の場面を読みくらべてから選ぶのがおすすめです。
港を出る前の、12月の宿の場面から。ゆっくり、イシュメールの隣で航海を始めてみてください。
English version of this review: Moby-Dick
参考
- Wikipedia「Moby-Dick」(英国版『The Whale』がロンドンのリチャード・ベントリー社から1851年10月18日に3巻本で、米国版『Moby-Dick; or, The Whale』がニューヨークのハーパー・アンド・ブラザーズ社から同年11月14日に1巻本で出たこと・題名が直前に変わったこと・英国版は700か所以上の語句の違いと削除や検閲があったこと・ナサニエル・ホーソーンへの献辞・当時は商業的に失敗しメルヴィルの死の時点で絶版だったこと・1919年の生誕100年後に20世紀になって「偉大なアメリカ小説(Great American Novel)」としての評価が確立したこと・1841〜42年の捕鯨船アクシュネット号での体験・チリ沖で追われたと伝えられる白いマッコウクジラ「モカ・ディック」・トマス・ビールの鯨の博物誌をはじめ何冊もの本から捕鯨の資料を得たこと・1850年2月に書き始め、もっとも集中して書いたのが1850〜51年の冬のピッツフィールドの農場だったこと・1850年8月にホーソーンと出会ったこと・語り手イシュメール・説教や戯曲や独白や鯨学の論考がまざる書き方・造語や珍しい語と聖書やシェイクスピアへの言及・散文と詩と説明文の切りかえ・クイークェグがポリネシア出身の入れ墨をした銛打ちであること・序盤の筋(12月にマンハッタンからニューベッドフォードへ・新米(green hand)として捕鯨の航海に加わるため・混みあった宿でクイークェグと同じ寝床に・マップル神父のヨナの説教・ナンタケットへ・クエーカー教徒の船主ビルダッドとピーレグ・ピークォド号・クリスマスの出航)) https://en.wikipedia.org/wiki/Moby-Dick
- Wikipedia「Herman Melville」(1819年8月1日ニューヨーク生まれ・1891年9月28日ニューヨークで死去・1839年に商船セント・ローレンス号の平水夫として航海したこと・1841年に捕鯨船アクシュネット号に乗り1842年にマルケサス諸島で船を離れたこと・マルケサスでの体験にもとづく『タイピー』(1846年)とその続編『オムー』(1847年)・1866年から19年間ニューヨークの税関検査官・ホーソーン論と献辞・死去時にはほとんど忘れられていたこと・1919年からの再評価・『ビリー・バッド』が1924年に死後刊行) https://en.wikipedia.org/wiki/Herman_Melville
- Project Gutenberg『Moby Dick; Or, The Whale』EBook #2701(本文の前に「語源」と「抜粋」があること・全135章とエピローグの構成・第1〜22章の章題(第10章「A Bosom Friend(心の友)」など)・宿の名が「潮吹き亭(Spouter-Inn)」であること・第16章でイシュメールが3隻を見比べてピークォド号を選ぶこと・鯨の歯や骨で飾られた古い船であること・ピーレグとビルダッドが元船長の共同船主であること・ピーレグは大声で口が悪く、ビルダッドはけちで聖書の言葉を口にする人物として描かれること・ピーレグが語るエイハブ船長の片脚とその人柄・エイハブが船室にこもっていて出航前にイシュメールが会わないこと) https://www.gutenberg.org/files/2701/2701-h/2701-h.htm
- Wikipedia(日本語)「白鯨」(日本語訳の一覧と訳者・初の完訳が阿部知二訳で1941年に第一部が出たこと・新潮文庫の田中西二郎訳が1952年に出て1977年改版・2006年新装改版であること・全135章・サマセット・モームが『世界の十大小説』に挙げたこと・通読が難しい作品としても知られること) https://ja.wikipedia.org/wiki/白鯨
- 国立国会図書館サーチ『白鯨』上 岩波文庫・八木敏雄訳・2004年 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007478705
- 国立国会図書館サーチ『白鯨』中 岩波文庫・八木敏雄訳・2004年 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007541639
- 国立国会図書館サーチ『白鯨』下 岩波文庫・八木敏雄訳・2004年 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007608898
- 国立国会図書館サーチ『白鯨』上巻 新潮文庫・田中西二郎訳・2006年改版 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008295133
- 国立国会図書館サーチ『白鯨』下巻 新潮文庫・田中西二郎訳・2006年改版 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008295128
- 国立国会図書館サーチ『白鯨』上 角川文庫・富田彬訳・2015年改版 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I026420305
- 国立国会図書館サーチ『白鯨』下 角川文庫・富田彬訳・2015年改版 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I026420306
- 国立国会図書館サーチ『白鯨 : モービィ・ディック』上 講談社文芸文庫・千石英世訳・2000年 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002895702
- 国立国会図書館サーチ『白鯨 : モービィ・ディック』下 講談社文芸文庫・千石英世訳・2000年 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002907657
- 国立国会図書館サーチ『白鯨』上 角川文庫・夢枕獏著・2024年(メルヴィル作品とは別の同題の作品) https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I033363954
