『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー — 誰も不幸を感じない世界は、本当にすばらしいのか

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「ディストピア小説」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。理想の社会に見えて、じつは息苦しい――そんな未来を描く物語のことです。その代表として、イギリスの作家ジョージ・オーウェルが国家による監視社会を描いた『一九八四年』と並んで必ず名前が挙がるのが、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』(原題 Brave New World)です。1932年にイギリスで出版されました。

『一九八四年』が、監視と暴力で人を縛る社会を描いたとすれば、『すばらしい新世界』が描くのは、その反対に見える社会です。そこでは誰も飢えず、誰も争わず、誰もが自分の暮らしに満足しています。それなのに、読んでいると背すじが寒くなる。今回は、はじめて読む方に向けて、物語の入り口と読みどころを紹介します。中盤以降の展開や結末には触れません。

どんな本か――作者と時代

作者のオルダス・ハクスリーは、1894年7月26日にイングランドのサリー州ゴダルミングで生まれ、1963年11月22日にアメリカのカリフォルニア州ロサンゼルス郡で亡くなりました。祖父は動物学者のトマス・ヘンリー・ハクスリー。兄のジュリアン・ハクスリーも生物学者という、科学者の家系に育っています。

ハクスリー自身は名門イートン校に学び、のちにオックスフォード大学のベリオール・カレッジで英文学を修めました。ただ、1911年に目の病気(角膜炎)にかかり、2〜3年のあいだ、ほとんど目が見えない状態になっています。その後、小説家として多くの作品を書き、生涯でノーベル文学賞の候補に9回挙げられました。

『すばらしい新世界』は、1931年の5月から8月にかけて、南フランスの港町サナリー=シュル=メールで書かれ、翌1932年2月にイギリスのチャット・アンド・ウィンダス社から出版されました。1937年にはハクスリーはアメリカへ移り住み、1958年には、この小説の名を冠した評論『Brave New World Revisited』も発表しています。

題名は、シェイクスピアの劇『テンペスト』の中で、少女ミランダが口にするせりふから取られています。ミランダは無邪気な驚きをこめて「すばらしい新世界」と言うのですが、その言葉を、この小説がどんな皮肉をこめて借りているのか。読み進めるうちに、だんだん分かってきます。

のちに、アメリカの出版社モダン・ライブラリーが選んだ「20世紀の英語で書かれた小説ベスト100」で、5位に選ばれました。

物語の入り口――人が「瓶」から生まれる世界

舞台は、はるか未来のロンドン。世界は「世界国家」と呼ばれる一つの体制にまとまっています。この世界では、年の数え方が変わっています。大量生産の流れ作業を広めた自動車王ヘンリー・フォードが、この社会の生みの親として救世主のようにあがめられていて、年号は「フォード紀元(After Ford)」。物語の時代はフォード紀元632年、西暦でいえば2540年にあたります。

この社会で、人は母親から生まれません。人工の瓶の中で育てられ、生まれる前から「階級」が決められています。いちばん上のアルファから、ベータ、ガンマ、デルタ、そしていちばん下のエプシロンまで。一つの受精卵から、そっくり同じ人間を何十人もつくる技術まであります。そして子どものころから、眠っているあいだに標語をくり返し聞かせる「睡眠学習」によって、誰もが自分の階級に満足するように育てられます。いやなことがあれば、「ソーマ」と呼ばれる薬を飲めば、すぐに気分が晴れます。

ロンドンの孵化(ふか)・条件づけセンターで働く人たちの中に、二人の人物がいます。一人は、ベータ階級の技術者で、まわりからの人気も高い若い女性レーニナ・クラウン。もう一人は、睡眠学習を専門とする心理学者バーナード・マルクスです。バーナードは最上位のアルファ・プラスなのに、その階級にしては背が低く、まわりから浮いていて、どこか満たされない思いを抱えています。

誰もが満足しているはずの世界で、満足しきれない男。この小さなずれが、物語を動かしていきます。その先で何が起きるのかは、ぜひ本で確かめてください。

読みどころ――「幸せ」が怖くなる読書体験

一つ目の読みどころは、この世界の作り込みです。瓶で生まれる人間、階級ごとに色分けされた服、眠りながら刷りこまれる標語、悩みを消す薬。どれも冗談のようでいて、細部まで筋が通っています。科学者の家系に育ったハクスリーならではの、妙に説得力のある未来像です。90年以上前に書かれたとは思えないほど、いまの私たちの暮らしにも重なる部分が見つかるはずです。

二つ目は、「何が悪いのか」が簡単には言えないことです。この世界の人々は、ほとんどが本当に幸せそうに見えます。争いも貧しさもありません。それなのに、なぜ読んでいて落ち着かないのか。その答えを自分の言葉で探すこと自体が、この小説を読むおもしろさです。

三つ目は、物語の入り口に立つバーナードという人物の人間くささです。彼は英雄ではありません。まわりになじめない不満を抱え、ときに嫉妬深く、ときにひがみっぽい。完璧に整えられた世界の中で、そんな「でこぼこ」のある人物がどう振る舞うのか。そこに、読者は思わず自分を重ねてしまいます。

こんな人におすすめ

  • 『一九八四年』を読んで、もう一つのディストピアの古典も知りたくなった人
  • 「便利で快適な暮らし」と「自由」の関係について、考えるきっかけがほしい人
  • SFは苦手でも、社会や人間について考えさせる小説なら読んでみたい人

邦訳・版の案内

日本では1933年に『みごとな新世界』という題で初めて訳されて以来、いくつもの訳が出ています。いま手に取りやすいのは、次の二つの文庫です。

一つは、光文社古典新訳文庫の黒原敏行訳(2013年)。もう一つは、ハヤカワepi文庫の大森望訳「新訳版」(2017年)です。どちらも題名は『すばらしい新世界』。この作品は造語や皮肉の効いた言い回しが多いので、書店で最初の数ページを読みくらべて、しっくりくる訳を選ぶのがおすすめです。

人が瓶の中で育つという設定にぞくりとしたら、あなたはもう、この「すばらしい」世界の入り口に立っています。

English version of this review: Brave New World

参考

  • Wikipedia「Brave New World」(執筆の時期と場所・1932年の刊行と出版社・舞台の年代・序盤の設定・題名の由来・モダン・ライブラリーの順位・評論 Brave New World Revisited の刊行年・『一九八四年』との比較) https://en.wikipedia.org/wiki/Brave_New_World
  • Wikipedia「Aldous Huxley」(生没年月日と生没地・祖父と兄・学歴・目の病気・アメリカへの移住・ノーベル賞候補の回数) https://en.wikipedia.org/wiki/Aldous_Huxley
  • Wikipedia(日本語)「すばらしい新世界」(日本語訳の一覧・初訳の題名と刊行年) https://ja.wikipedia.org/wiki/すばらしい新世界
  • 国立国会図書館サーチ『すばらしい新世界』光文社古典新訳文庫・黒原敏行訳・2013年6月 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I024447088
  • 国立国会図書館サーチ『すばらしい新世界 新訳版』ハヤカワepi文庫・大森望訳・2017年1月 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I027803237