『オリエント急行の殺人』アガサ・クリスティー — 雪に閉ざされた国際寝台列車と、乗り合わせた名探偵

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イスタンブールからフランスのカレーへ向かう寝台列車に、ひとりのベルギー人が乗り込みます。中東での仕事を終えてロンドンへ帰る途中の、名探偵エルキュール・ポアロです。

アガサ・クリスティーの『オリエント急行の殺人』(原題 Murder on the Orient Express)は、1934年に出版され、これまでに何度も映画やドラマになってきた作品です。題名だけは知っている、映画で見たことがある、という方も多いかもしれません。今回は、これから原作を読む方に向けて、物語の入り口と読みどころを紹介します。推理小説ですので、事件の中身、犯人、謎解き、中盤以降の展開には一切触れません。

どんな本か――作者と時代

アガサ・クリスティーは、1890年9月15日にイングランド南西部デヴォン州のトーキーで生まれ、1976年1月12日にオックスフォードシャー州ウォリングフォードで亡くなりました。著書の売り上げは20億部を超えるとされています。最初の長編『スタイルズ荘の怪事件』(1920年)でポアロを登場させ、その後ポアロは長編33作、50を超える短編で活躍しました。『オリエント急行の殺人』は、そのポアロものの長編の8作目にあたります。

この作品の背景には、クリスティー自身の旅があります。1928年、彼女はオリエント急行に乗ってイスタンブールへ向かい、さらにバグダッドまで旅をしました。1930年には考古学者のマックス・マローワンと結婚し、毎年数か月を中東の発掘現場で過ごすようになります。その後もオリエント急行に乗る旅は続き、悪天候のために列車が立ち往生したことも経験しています。こうした国際列車の旅の体験が、この作品に生かされました。

本はまず1933年9月末から11月はじめにかけて、アメリカの雑誌『サタデー・イヴニング・ポスト』に連載されました。単行本は、イギリスでは1934年1月1日にコリンズ社の「クライム・クラブ」から出版されています。同じ年の2月28日にはアメリカのドッド・ミード社からも刊行されましたが、題名は『カレー行き車両の殺人(Murder in the Calais Coach)』に変えられていました。グレアム・グリーンの小説『スタンブール特急』が、アメリカでは『オリエント急行』という題で出ていたため、混同を避けたのです。1995年には、アメリカ探偵作家クラブが選んだ「ミステリー・ベスト100」にも入っています。

なお、日本では1935年に初めて訳されて以来、何人もの訳者が手がけてきました。邦題には『オリエント急行の殺人』と『オリエント急行殺人事件』の2通りがあり、どちらも同じ作品です。

物語の入り口――季節外れの満席列車

ポアロは中東での仕事を終え、ロンドンへ戻る途中です。物語の序盤は、おもにイスタンブールで進みます。ところが、イスタンブールを出てカレーへ向かうオリエント急行は、この季節には珍しく、寝台がすっかり埋まっていました。困ったポアロを助けたのが、友人のブーク。国際寝台車会社(ワゴン・リ社)の重役で、彼の手配で、ポアロはどうにか寝台を手に入れます。

列車には、ラチェットというアメリカ人の実業家も乗っていました。彼は、命をおびやかす脅迫を受けているといいます。ポアロが名探偵だと気づいたラチェットは、身の安全を守ってほしいとポアロに頼みます。しかしポアロは、その依頼を断ります。

乗り合わせた人々は、じつに国際色ゆたかです。アメリカ、イギリス、スウェーデン、ロシア、ドイツ、ハンガリー、ギリシャ――国籍も身分もばらばら。イギリス人の家庭教師、イギリス人の大佐、ロシアの公爵夫人、スウェーデン人の宣教師、ハンガリーの伯爵夫妻、アメリカ人の未亡人、ギリシャ人の医師。ふだんなら顔を合わせることもなさそうな人たちが、一本の列車に乗り合わせています。

やがて列車は、当時のユーゴスラビア、いまのクロアチアにあるヴィンコヴツィの駅を過ぎたところで、深い雪の吹きだまりに突っ込んで止まってしまいます。前にも後ろにも進めない、雪に閉ざされた列車。題名のとおり、この車内で殺人事件が起こり、ポアロは調べに乗り出すことになります。ここから先は、ぜひ本で確かめてください。

読みどころ――動けない列車という舞台

一つ目の読みどころは、舞台そのものです。寝台車の通路に並ぶ個室、外は一面の雪。列車は前にも後ろにも進めず、乗客は車内にとどまるしかありません。限られた空間に、限られた人々。この「動けない列車」という設定が、物語にほどよい緊張感を与えています。クリスティー自身が実際に乗った国際列車の旅の経験が生かされているので、1930年代の寝台列車の旅の空気を味わうだけでも楽しめます。

二つ目は、乗客たちの顔ぶれです。国も立場も違う人々が、一本の列車に乗り合わせている。1930年代のヨーロッパを旅する人々が、ひとつの列車の中に集まっている。その顔ぶれを眺めているだけで、当時の国際列車の旅の空気が伝わってきます。

三つ目は、ポアロが「旅の人」として物語に入ってくることです。ポアロは事件を探しに来たわけではなく、ロンドンへ帰るために列車に乗っただけでした。依頼を受けて現場に駆けつけるのではなく、たまたま居合わせた旅人として雪の列車にとどまることになる。友人のブークとのやりとりも含めて、肩ひじ張らない入り方なので、ポアロものをはじめて読む方にもなじみやすい一冊です。

四つ目は、映像作品との読みくらべです。1974年にはシドニー・ルメット監督、アルバート・フィニー主演で映画化され、イングリッド・バーグマンがこの作品でアカデミー助演女優賞を受けました。2010年にはイギリスのドラマ『名探偵ポワロ』でデヴィッド・スーシェがポアロを演じ、2015年には舞台を昭和初期の日本に移したドラマが、野村萬斎の主演でフジテレビで放送されています。2017年にはケネス・ブラナーが監督と主演を務めた映画も公開されました。映像で知っている方も、原作ならではの語り口をあらためて味わえます。

こんな人におすすめ

  • 映画やドラマで見たことがあり、原作ではどう描かれているのか確かめたい人
  • 列車の旅や、1930年代のヨーロッパの雰囲気が好きな人
  • 限られた場所に人々が集まる、いわゆる「閉ざされた状況」のミステリーが好きな人
  • 『アクロイド殺し』などに続いて、ポアロものをもう一冊読みたい人

邦訳・版の案内

いま手に取りやすい文庫には、次のようなものがあります。

早川書房のクリスティー文庫には、山本やよい訳『オリエント急行の殺人』(2011年、シリーズの8番)が入っています。クリスティーの作品をまとめて読みたい方には、このシリーズがそろえやすいでしょう。

2017年には新しい訳が2つ出ました。光文社古典新訳文庫の安原和見訳『オリエント急行殺人事件』と、角川文庫の田内志文訳『オリエント急行殺人事件』です。また、東京創元社の創元推理文庫からは、長沼弘毅訳『オリエント急行の殺人』の新版(2003年)が出ています。

同じ場面でも、訳によってポアロの口ぶりや乗客たちの話し方の印象がずいぶん変わります。書店や図書館で、最初の数ページを読みくらべてみてください。

イスタンブールの駅で寝台に落ち着いたら、雪の夜の長い旅を、ポアロと一緒に過ごしてみてください。

English version of this review: Murder on the Orient Express

参考

  • Wikipedia「Murder on the Orient Express」(英国初版の刊行日と出版者・米国版の刊行日と出版者と米国での題名、その題名にした理由(グレアム・グリーン『スタンブール特急』の米国題との混同を避けるため)・米国誌『サタデー・イヴニング・ポスト』での連載(1933年9月30日〜11月4日)・序盤の設定(ベルギー人の探偵ポアロが中東からロンドンへ帰る途中であること、季節外れの満席、友人ブークの手配、ブークが国際寝台車会社の重役であること、アメリカ人実業家ラチェットが脅迫を受けていてポアロに身辺の警護を頼み断られること、当時のユーゴスラビア、いまのクロアチアにあるヴィンコヴツィ駅の先で雪の吹きだまりに止まること)・序盤の章がおもにイスタンブールで進むこと・乗客の国籍・主な登場人物の職業・1995年のアメリカ探偵作家クラブの「ミステリー・ベスト100」・1974年の映画化(シドニー・ルメット監督、アルバート・フィニーのポアロ、イングリッド・バーグマンのアカデミー助演女優賞)・2010年のドラマ『名探偵ポワロ』でのデヴィッド・スーシェ・2017年のケネス・ブラナー監督・主演の映画・2015年の日本のドラマ化) https://en.wikipedia.org/wiki/Murder_on_the_Orient_Express
  • Wikipedia「Agatha Christie」(生没年と生没地・著書の販売部数・最初の長編『スタイルズ荘の怪事件』が1920年刊でポアロの初登場作であること・ポアロが登場する長編と短編の数・1930年の考古学者マックス・マローワンとの結婚と中東の発掘地での滞在・1928年にオリエント急行でイスタンブールへ向かいバグダッドへ旅したこと(その後の旅で吹雪や洪水により列車が止まったことは Wikipedia「Murder on the Orient Express」による)・国際列車の旅の経験を本作に生かしたこと) https://en.wikipedia.org/wiki/Agatha_Christie
  • Wikipedia(日本語)「オリエント急行の殺人」(ポアロシリーズの8作目であること・ポアロがシリアでの仕事を終えてイスタンブール発カレー行きの列車に乗ること・クリスティー自身が悪天候による列車の立ち往生を経験したこと・2015年のフジテレビのドラマ化が昭和初期の日本への翻案で野村萬斎が主演したこと・日本語の初訳が1935年であること・日本語訳の一覧と邦題の違い) https://ja.wikipedia.org/wiki/オリエント急行の殺人
  • 国立国会図書館サーチ『オリエント急行の殺人』ハヤカワ文庫 クリスティー文庫8・山本やよい訳(2011年) https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000011173597
  • 国立国会図書館サーチ『オリエント急行殺人事件』光文社古典新訳文庫・安原和見訳(2017年) https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I028055895
  • 国立国会図書館サーチ『オリエント急行殺人事件』角川文庫・田内志文訳(2017年) https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I028627221
  • 紀伊國屋書店『オリエント急行の殺人(新版)』創元推理文庫・長沼弘毅訳(2003年) https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784488105396