『バスカヴィル家の犬』コナン・ドイル — 霧の荒野に伝わる、魔犬の言い伝え

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シャーロック・ホームズが活躍する長編小説は全部で4作。そのなかで、愛好家の投票で最高の一作に選ばれたこともあるのが、アーサー・コナン・ドイルの長編『バスカヴィル家の犬』(原題 The Hound of the Baskervilles)です。

舞台はロンドンのベイカー街から遠く離れた、イングランド南西部の荒れ野。旧家に伝わる「魔犬」の言い伝えと、霧に包まれた土地の不気味さが、推理小説に怪奇小説のような味わいを加えています。今回は、はじめて読む方に向けて、物語の入り口と読みどころを紹介します。推理小説ですので、犯人や謎解き、中盤以降の展開には一切触れません。

どんな本か――作者と時代

作者のアーサー・コナン・ドイルは、1859年5月22日にスコットランドのエディンバラで生まれ、1930年7月7日にイングランドのサセックス州クロウバラで亡くなりました。本業は医師で、1900年には南アフリカのボーア戦争に志願し、ブルームフォンテーンの野戦病院で医師として働いています。

ドイルは1893年の短編「最後の事件」で、ホームズの物語にいったん幕を引いていました。歴史小説にもっと時間を使いたかったためですが、読者からは大きな反発が起きます。それから8年ほどたって発表されたのが、この『バスカヴィル家の犬』でした。物語の時期は「最後の事件」より前に置かれています。

きっかけの一つは、1901年6月、ジャーナリストのバートラム・フレッチャー・ロビンソンと一緒に、デヴォン州のダートムアと呼ばれる荒野を歩いたことでした。ロビンソンは魔犬の伝説や土地の空気を伝える手助けをしたとされています。作品は雑誌『ストランド・マガジン』に1901年8月から1902年4月まで連載され、1902年3月にイギリスのジョージ・ニューンズ社から単行本として出版されました。同じ年にはアメリカでも刊行されています。

物語の入り口――置き忘れのステッキと、古い言い伝え

物語は、ベイカー街の部屋に残された1本のステッキから始まります。訪ねてきた客が置き忘れていったもので、銀の帯には、贈り主と持ち主の名前、そして1884年という年が刻まれていました。ワトスンはこのステッキから持ち主の人物像を推理してみせますが、ホームズはそれを受けて、さらに細かな推理を重ねていきます。

まもなく現れた持ち主は、医師のジェームズ・モーティマー。彼が持ってきたのは、1742年に書かれたという古い文書でした。そこには、かつてのバスカヴィル家の当主ヒューゴーが、荒れ野で恐ろしい魔犬に襲われたという言い伝えが記されていました。

モーティマーが相談に来た本当の理由は、最近起きた出来事にあります。バスカヴィル家の当主チャールズ卿が、屋敷のイチイの並木道の端で亡くなっているのが見つかったのです。死因は心臓の発作とされましたが、モーティマーは遺体の近くで、ある痕跡を目にしていました。

そして、跡継ぎのヘンリー卿がカナダからロンドンに着いたばかり。ホテルに滞在するヘンリー卿のもとには、新聞から切り抜いた言葉を貼り合わせた、差出人不明の手紙が届いていました。

As you value your life or your reason keep away from the moor.

(命と正気が惜しいなら、荒れ野に近づくな。)

さらに、買ったばかりの靴が片方なくなるという、小さな奇妙な出来事まで起こります。やがてホームズは、ワトスンに、ヘンリー卿と一緒にデヴォンへ向かうよう頼みます。ワトスンが荒れ野の屋敷で何を見ることになるのかは、ぜひ本で確かめてください。

読みどころ――荒れ野の空気と、ワトスンの活躍

一つ目の読みどころは、舞台の空気です。ホームズといえばロンドンの霧と下宿の暖炉を思い浮かべる人が多いかもしれませんが、この作品では、荒涼とした土地そのものが主役のように描かれています。列車の窓からはじめて荒れ野を目にしたヘンリー卿が心を奪われる場面、夕暮れの道を馬車で屋敷へ向かう場面など、読んでいるだけで冷たい風が吹いてくるようです。古い伝説と科学的な推理が同じ物語のなかでせめぎ合うところに、この作品ならではの面白さがあります。

二つ目は、ワトスンです。ホームズはワトスンに、自分の推理は加えずに事実だけを報告するよう頼んで送り出します。そのため物語の大きな部分で、ワトスンは自分の目と足を頼りに動くことになります。いつもはホームズの横で驚いている役回りのワトスンが、ひとりで考え、行動する姿は、シリーズを読んできた人にとって新鮮なはずです。

三つ目は、冒頭のステッキの場面に詰まった、ホームズものの楽しさです。何気ない持ち物から、持ち主の経歴や暮らしぶりを言い当てていく。その手つきを短い章のなかで存分に味わえるので、ホームズをはじめて読む人にとっても入りやすい一冊になっています。

この作品はイギリスでも長く愛されてきました。2003年にBBCが行った「好きな小説」の投票「ビッグ・リード」で200作品の中に選ばれ、1999年のホームズ愛好家による投票では、長編4作のうちで最高の作品とされています。

こんな人におすすめ

  • ホームズの短編は読んだことがあり、長編にも挑戦してみたい人
  • 謎解きと同じくらい、霧や荒れ野、古い屋敷といった雰囲気を味わいたい人
  • 「呪い」や「言い伝え」がからむ、少し怖い物語が好きな人

邦訳・版の案内

邦訳はいくつもの出版社から出ています。新潮文庫の延原謙訳、光文社文庫「新訳シャーロック・ホームズ全集」の日暮雅通訳、創元推理文庫「シャーロック・ホームズ全集」の深町眞理子訳、角川文庫の駒月雅子訳などがあります。訳によって言葉づかいや雰囲気がかなり違うので、最初の章のステッキの場面を読みくらべてから選ぶのもおすすめです。

ベイカー街に残された1本のステッキを手に取ったら、あなたももう、霧の荒れ野への道を歩き始めています。

English version of this review: The Hound of the Baskervilles

参考

  • Project Gutenberg「The Hound of the Baskervilles by Arthur Conan Doyle」(eBook #2852・第1〜6章の内容と引用の原文) https://www.gutenberg.org/files/2852/2852-h/2852-h.htm
  • Wikipedia「The Hound of the Baskervilles」(ホームズ長編の第3作・『ストランド・マガジン』連載期間・英米の単行本の刊行・執筆の経緯・ダートムアの取材とフレッチャー・ロビンソン・舞台・序盤の設定・BBC「ビッグ・リード」と愛好家の投票) https://en.wikipedia.org/wiki/The_Hound_of_the_Baskervilles
  • Wikipedia「Arthur Conan Doyle」(生没年と生没地・ボーア戦争での従軍医・1893年の「最後の事件」と読者の反応) https://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Conan_Doyle
  • 新潮社『バスカヴィル家の犬』新潮文庫・延原謙訳 https://www.shinchosha.co.jp/book/213407/
  • 国立国会図書館サーチ『バスカヴィル家の犬』光文社文庫(新訳シャーロック・ホームズ全集)・日暮雅通訳 https://ndlsearch.ndl.go.jp/en/books/R100000002-I000008617541
  • 国立国会図書館サーチ『バスカヴィル家の犬』創元推理文庫(シャーロック・ホームズ全集)・深町眞理子訳 https://ndlsearch.ndl.go.jp/en/books/R100000002-I024262396
  • KADOKAWA『バスカヴィル家の犬』角川文庫・駒月雅子訳 https://www.kadokawa.co.jp/product/201202000136/